2020-06-19 第201回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 閉会後第1号
琉球の伝統的な建材であるチャーギとオキナワウラジロガシも調達をするということで聞いておりますけれども、琉球王国時代の首里城に使われていた畳につきましても、かつて琉球畳は七島イと呼ばれるものを原料として作っておりました。これは今、大分県の国東半島に僅かに残る形でありますけれども、この七島イを使った畳は、実は前回の東京オリンピックの柔道競技でも正式に使われていたものでもあります。
琉球の伝統的な建材であるチャーギとオキナワウラジロガシも調達をするということで聞いておりますけれども、琉球王国時代の首里城に使われていた畳につきましても、かつて琉球畳は七島イと呼ばれるものを原料として作っておりました。これは今、大分県の国東半島に僅かに残る形でありますけれども、この七島イを使った畳は、実は前回の東京オリンピックの柔道競技でも正式に使われていたものでもあります。
前回の復元では、琉球王国時代の歴史資料等を根拠として、正殿におきまして、国王の玉座であります御差床などに畳を使用していたところであります。 御指摘の点につきましては、まずは往時の御差床の畳の材料がどのようなものであったのかということを示す資料につきまして確認をさせていただきまして、有識者の御意見も伺いながら、御指摘の七島イを使用する可能性も含めまして検討をしてまいりたいと考えております。
また、御指摘の泡盛と空手の連携ということでありますけれども、琉球王国時代、空手の範士が泡盛を守る役割を果たしていたとも伝えられておりまして、空手と琉球泡盛は歴史的にも密接なつながりを有しております。
そういうことでお聞きいただきたいんですが、泡盛は、琉球泡盛で有名ですが、これ起源は、琉球王国時代から王府が管理して、原料も王府から提供されて、ずうっと時代を変遷しながら、米とアワを交ぜて造ったこともあるんですね。それから、ずうっと時代が流れてまいりまして、アジア各地で確保していた米が、大正の末期から昭和の初期にかけてタイ米が定着するんですね。タイ米で原料とするということで定着。
実は、沖縄はかつて琉球王国時代、万国津梁時代というふうに言われておりましたけれども、アジアの国々をつなぐ一つの懸け橋として活躍をした時代がありました。多様なものを受け入れる寛容さといいましょうか、相互扶助の精神、さらには未来を創造するためのたくましい県民性があったわけです。 ところが、去る太平洋戦争で沖縄は過酷な地上戦が展開されて、二十万人余に及ぶ尊い生命を失っています。
これは、琉球王国時代の首里城正殿に掲げられていた鐘がございまして、それは沖縄戦のときにアメリカ軍が戦利品としてアメリカに持っていっておりましたが、それを取り戻して、現在の首里城にございます。 この鐘は、一四五八年、時の尚泰久という王様のときに作られたものであります。当時のアジアにおける琉球王国の面目躍如たる姿がこの万国津梁の鐘に刻まれておるわけであります。
かつて琉球王国時代には、万国津梁として、近隣国のみならず、アジア全体の国々の懸け橋として交易をしてきた歴史がございます。 この際、那覇—台北間、空路で約一時間というような地政学的にも優位性のある沖縄を拠点としてのアジア戦略を考えていく必要があると思いますが、どのような仕掛けあるいは方策があるか、総理の御見解をお伺いします。 ロシアと日本の関係についてお尋ねします。
それは、琉球王国時代のものが廃藩置県によって東京に移されてきたわけです。そして、それが復帰後、沖縄に戻すという話がまとまりまして、それはもう精神的な問題ですから、愛着の問題、誇りの問題ですから、非常に県民は喜びましたですね。そして、やはりその後、いかに保存していくかということもテーマになって議論をしたんですが。
十八世紀の琉球王国時代、最大の政治家と言われた蔡温は、当時の琉球王国を取り巻く政治状況を次のように述べておりました。「琉球の政治は、朽ちた縄で荒馬を御するがごとく。」 これは、中国、薩摩、日本、朝鮮との間で琉球王国が微妙なバランスを保ちながら政治を進めてきたことを象徴しております。ある意味、衆議院と参議院がねじれている今の政治状況と同じであります。
琉球王国時代の琉球は、武力に頼らず万国津梁の精神で、アジアの国々と交流、交易を通して、平和で安定した国を築き繁栄していたことはよく知られていると思います。 二十一世紀はアジアの時代ともよく言われますが、我が国は近隣諸国との文化的、人的、経済的交流等を強化し、活発に行っていくことを望むものです。
既に、平成四年に作成いたしました世界遺産推進のための暫定リストに琉球王国時代の遺産群を登録いたし、推薦のための準備を進めてきたところでございますが、去る五月二十一日に開催されました文化財保護審議会で、首里城址を初めとする琉球王国のグスク及び関連遺産群の世界遺産推薦について了承いただいたところであります。
むしろ、もしそうした議論をいたさなければならないのであれば、あるいは沖縄県民と本土の私たちの間、琉球王国時代から廃藩置県を経て琉球処分と言われました不幸な時代、そしてその後におきましても存続をした沖縄県独特の、例えば人頭税が廃止されるまで、本土の各都道府県と同等の税制がしかれるまでにどれだけの時間がかかったのか。
戦後すぐのころ亡くなりましたけれども、この伊波普猷が、それから現知事の大田昌秀先生が昭和の沖縄の歴史を検証する中から、あるいは琉球王国時代の中国との関係の歴史を考察する中から、沖縄の県民性は事大主義であると言ってまいりました。
その二国間あるいは多国間にあって、わき出る蓬莱の島というふうにかつて琉球王国時代は言われたわけですね。蓬莱圏構想、まことに結構であります。蓬莱とは、東方にあって、仙人が住み、不老不死の島の意味だそうであります。
かつて琉球王国時代、沖縄の人々は、いわゆる琉球の人々は、日本本土はもとよりでありますけれども、中国、朝鮮、東南アジア、遠くは太平洋諸国に至るまで交易をし、富をもたらすだけでなく文化をも流入し、津梁をもって万国のかけ橋とたすという広大な気概に燃えていたわけでございます。
そして、琉球王国時代における奄美の方々と沖縄県民の間の独特な感情というものを私はいやというほど知らされてまいりました。そうした住民の感情というものを考えましたとき、都道府県の行政区画を越えて沖縄の法律の体系の中に奄美を取り込むということは、鹿児島県の中の一部だけに、沖振法がかかるということ以上に問題を生ずるのではないか、私は率直にそんな感じを持ってこれを拝聴しておったわけであります。
御案内のとおり、首里城の正殿は琉球王国時代の国政の政庁、まつりごとの庁といたしまして重要な儀式に使用されたものでございまして、その様式、規模におきまして沖繩の古建築中最大にしてかつ特徴的なものといたしまして、戦前は国宝保存法によって国宝の指定を受けまして、昭和六年に国の補助事業として解体修理を行なったわけでございます。